2009.11.22&24(日&火)

設楽原の古戦場 前半

新城市長篠市場・新城市竹広
 広い草地の長篠城本丸跡。建物は無く、内堀と土塁が当時の面影を残すのみ。ゆったり流れる空間を 紅葉が華やかに
覆います。長篠城は平地が山谷に変わる境目にあり、甲信と東海の木戸口として、戦略上重要な位置を占めていました。そ
の為、今川義元亡き後は徳川につき、武田軍に攻撃されて支配下に落ち、信玄亡き後は再び家康につく変遷の城でした。

不忍の滝(8m)。広場をぐるり歩くと、フェンス下より水の落ちる音がして、滝の存在に気がつく筈です。長篠の北から南には、矢沢
川が流れていて、ちょうど城の西北付近で滝となって落ちます。もともと寒狭川に落ちていた滝が、長い間に少しずつ後退して出来たもの
で、小さいけれど侵食され深く切れ込んだ谷を形成して城を守ります。矢沢川はこれより150m流れて、寒狭川(豊川本流)に合流します。

151号線から入ると分かりづらい地形も、視点を変えると一目瞭然。長篠城は自然の形状を利用した50mの断崖を持つ要塞で
した。崖の上が「櫓址」、その奥が「野牛郭址」、さらに飯田線を超えて「本丸址」です。左から寒狭川(豊川本流)、右から宇連川が流
れて来て、ここで合流し豊川となって、三河湾へと下ってゆきます。ここが、長篠の合戦の舞台です。写真は、牛渕橋から撮りました。

現在、長篠城址は151号線や飯田線によって分断されていますが、その小さな踏切を渡って道なりに進むと、「野牛郭址」
に出ます。そこから細道を降りると、木々の間から寒狭川(豊川本流)と宇連川の合流する渡合を望むことが出来ました。寒狭川方
面は断崖で行き止まりなので、宇連川方面へ降りると、河原へ降り立つことが出来ます。赤い橋は牛渕橋です。鳥居強右衛門は、
雨降る闇夜に紛れて不浄口より城を抜け、岩石を伝って寒狭川に降りました。川中に張り巡らされた鳴子の付いた網を切り抜け、
豊川を4km泳ぎ下り、武田勝頼軍の幾へもの厳しい包囲網を抜け、現在の飯田線「三河東郷」駅と「茶臼山」駅の中程、連吾川が
豊川に注ぐ辺りの「広瀬」に上陸。敵軍の後を回って、雁峰山(628.3m 設楽原古戦場の北に位置)の中腹付近の「涼み松」で、
無事脱出の狼煙をあげ、作手から男川沿いを走り、岡崎城の家康に援軍を求める為に、50kmの行程を敢行したと伝えられます。

 武田の指図に従わず、処刑された鳥居強右衛門のここが磔地。439号線沿いにあります。林に遮られ、今や寒狭川も長篠
城址も見えません。1575年5月、再び長篠城を取り戻さんと三河に攻め入った武田勝頼軍の三河侵略を阻むべく、家康は岐阜の
信長に援軍を要請していました。武田軍の凄まじい猛攻に耐え、兵糧攻めに苦しみ、もう後がなくなった長篠城では、家康に援軍
を頼みたくとも、城を抜け出すことさへ不可能と思われる状況の中、城内に残る500名での総攻撃で討ち死にするか、21歳の城主
奥平貞昌の切腹で降伏開城するかという瀬戸際で、強右衛門に命運を託すことになったのです。家康の援軍要請を受け岡崎城
に到着した織田信長軍は、命を懸けて脱出してきた強右衛門から長篠城危急の知らせを受け、家康軍と共に武田軍と戦うべく出
発することになったのです。大役を果たした強右衛門は、再びその足で引き返し、雁峰山にて今度は「援軍来る」の狼煙を上げ、
城に戻ろうとしましたが、警戒を強めていた武田軍に捕らえられてしまいました。徳川家康と織田信長の大軍がやって来ることを知
った武田勝頼は、急ぎ長篠城を落とす為に一計を謀ります。強右衛門に「救援は来ない。開城して降伏せよ。」と言わせようとした
のですが、強右衛門が二の丸近くの弾正郭から城に向かって叫んだのは、「織田信長公と徳川家康公の連合軍は3日で到着す
る。それまで持ちこたえよ。」でした。激怒した武田兵に寒狭川対岸に曳きたてられ、長篠城の面前で磔形にされたのです。鳥居
強右衛門36才。武士ではなく雑兵でした。強右衛門の行動と最後に感じ入った武田軍の落合左平次は、その最後の姿を描き、
自身の旗指物としたということです。話は語り継がれ、磔刑地から700m程離れた飯田線の駅に、「鳥居」の名が残されています。

歴史を語る、馬防柵(再現)と雁峰山。その間を遮るように、須長・大宮・牛倉地区を21号線をまたぐ形で第二東名工事が行わ
れています。ここは、かつて設楽原と呼ばれた古戦場跡です。長篠城址からは西へ約3kmのところ。激戦のあった設楽原は、南北
に細長く伸びた平地で、東西は丘陵地になっていました。その西側、画面では左手の馬防柵の後、弾正山台地に徳川軍と織田軍
が、さらに後方の茶臼山に織田信長と柴田勝家が、そして羽柴秀吉がその背後に陣を構えました。鉄砲隊には前田利家が配置さ
れています。そして東側、画面では右手、枯れた葦が続く連吾川の右側丘陵地、天王山・信玄台地に武田軍が構えました。今より
も見晴らしが良く、遠く見渡せたようです。織田信長は、全軍が武田側より見えないように、あちこちの窪地に兵を隠して、実際の数
より少なく見せました。時は1575年5月21日。今の暦では7月9日。ちょうど梅雨明けの頃になります。当時も両軍の間には田んぼ
がありました。この時季、降り続く雨で小さくても水かさが増した川、水がたっぷり入った田んぼ、囲むように広がる台地。織田・徳川
軍は、地元の利を活かした情報を元に、天下無敵で勇猛な武田軍に打ち勝つ作戦を練って、設楽原を戦闘の地に選んだのです。

 連吾川から見た弾正台地方面。岡崎から設楽原に到着した38000の織田・徳川の連合軍は、土を掘り盛土して土塁を造り、
手前には馬防柵を組み、掘り跡は乾堀とし、堀と柵と銃眼付土塁の三段構えの砦を構築しました。設楽原に到着後、動きを止めた
織田・徳川軍に、武田軍は軍議を重ねて、ついに長篠城監視の為の兵士3000を残し、12000で寒狭川を渡り本陣を医王寺から設
楽原手前の八束穂に移したのです。背後に大河(寒狭川)と敵軍(長篠城)を置くという負荷を課してまで、敵軍の誘いに乗る形で
進軍したのは何故でしょうか。勝気に勝る勝頼が、信玄以来の老臣の「勝算無し。むしろ伊那谷まで引き戻って迎撃すべし。」とい
う慎重論を恥辱とし、決戦を主張する意見を採り入れたのは、設楽原で野営する織田信長を一気に叩き潰して、家臣達に己の力
を認めさせたかった為ではないでしょうか。勝頼は側室(諏訪御料人)の子であり、諏訪勝頼として名門諏訪家を復活すべき存在
でした。ところが、嫡男であった義信(正妻は今川義元の娘)が、今川氏を攻略しようとする父信玄との対立を深める中、謀反の疑
いで信玄に捕らえられ、幽閉され死に追いやられてしまいました。信玄は、家中をまとめる為、勝頼ではなくその子の信勝(6才)を
武田家の後継者とし、勝頼を 信勝が成人するまでの後見人すなわち陣代としました。信玄亡き後、陣代に過ぎない武田勝頼が軍
を率いて戦功をあげてその才を見せても、多くの親類縁者で構成される武田家の中では、かつて信玄が滅ぼした諏訪家の四郎勝
頼に過ぎず、信望を得ることは難しかったろうと思われます。設楽原の戦いの敗戦色濃くなる最中、何と離反する武将(親類縁者)
も現れています。4000の兵士を連れた徳川軍の酒井忠次が、5月20日夜に豊川を渡って、21日夜明けとともに、長篠城を包囲監
視する為に築かれた、武田軍の五砦のうち食糧備蓄砦である鳶ヶ巣砦を背後から急襲し奪い取り、さらに勢いに乗って残りの砦も
押さえました。指揮官を失いばらばらになった武田兵は、設楽原の本隊に合流しようと退却します。長篠城奪回の銃の音や騒ぎは、
設楽原の武田軍にも届いたはずです。前後を織田・徳川軍に挟まれ、退路を断たれた武田軍が、連合軍へ攻撃を開始しました。





ノハラアザミ野原薊
キク科アザミ属
ノコンギク野紺菊
キク科シオン属
オオジシバリ大地縛り
キク科ニガナ属

リンドウ竜胆
リンドウ科リンドウ属
ヤマハッカ山薄荷
シソ科ヤマハッカ属
アキノタムラソウ秋田村草
シソ科アキギリ属

実カラスウリ烏瓜
ウリ科カラスウリ属
実クサギ臭木
クマツヅラ科クサギ属
実フユイチゴ冬苺
バラ科キイチゴ属

実キチジョウソウ吉祥草
ユリ科キチジョウソウ属
実ヤブラン藪蘭
ユリ科ヤブラン属
実タラノキ惣木
ウコギ科タラノキ属