2014.9.2(火)

寒狭川沿いで

新城市出沢前畑 寒狭川(豊川)
 寒狭峡大橋(257号線)から寒狭川(豊川)下流を見下ろして。新滝と猿橋と、画面中央ちょっと上に長篠発電所の赤茶の屋根がチラリ。
画面最右端に新城・常寒山(とこさぶやま 480m)。代わって、「猿橋」から新滝と赤い寒狭峡大橋を。渓流には、鮎釣り(ピンコ釣り?)人たちが。






「猿橋」を渡った反対側から。左が下流で釜淵と呼ばれます。豪雨で暴れ川になると、辺り一帯は消える沈下橋ですので見るからに頑丈です。
ここは、寒狭川の中でも一番狭い個所です。文武天皇の頃、天皇の病気平癒祈祷を煙厳山(鳳来寺山)に棲む利修仙人に依頼すべく、勅使として
草鹿砥公宣卿が派遣されました。川にさしかかると、夢のお告げ通りに猿が出て来て橋を作って渡してくれた、という伝説から猿橋と呼ばれています。









 寒狭峡大橋から上流の鮎滝方面を。水嵩が増した為、岩が沈み、3倍幅の広さに変貌した鮎滝。そして、何と、網笠漁が見られました♪






そして、馬場美濃守信房公の墓へ。21号線が旧道にぶつかり右折して257号線へ行く、その角地。鮎滝の駐車場になっている横上にお墓
(明治期に今泉家が敷地内に建立)があります。151号線「JAこんたく長篠」の斜め向かい、南西の地にもお墓(首塚)がありますが、そちらはパス。






寒狭川沿い旧道にある橋詰殿戦場の案内碑。馬場美濃守信房公討死の地は、この場所の頭上10mほどの斜面に位置します。ポケット状の
スペースに車を置いて、北(画面右)に50mほど進んだ先に、Uターンするように登る( 登り口を草に覆われていますが大丈夫。 )細道があります。






一瞬、藪漕ぎする旧道からの上り口。右手50mの所に碑と案内表示が。 この先、右手に「ふぢう道」の案内。武田勢が設楽原へ進んだ道。

左下に「ふぢう道」の案内。踏み跡を辿ったこの右上が討死の地。 馬場美濃守信房討死地。標高100m近い見晴らしの効いた筈の場所。








 橋詰さんばし跡。出沢から長篠にかけて、川幅が狭くなっている所が何ヶ所かあって、武田勢が設楽原へ向かう為に木を渡したといわれる所
の一つ。変わった画面は「鵜の首」と呼ばれる岩場。あまりの水飛沫と水煙で、濡れて足元が覚束なくて近寄れず、09年10月に撮ったものを借用。






先月に続き再び長篠堰堤へ。さらに水量が増えていて、ちょっと近寄っただけで、レンズに水滴が張りつく。凄まじい様子とはこのことだと思い
ました。晴れていたのですが、水煙で白っぽくなっています。手前の岩が濡れて黒光りしています。怖くて、これ以上は無理。堰堤から余水吐まで。






クズ葛
マメ科クズ属
センニンソウ仙人草
キンポウゲ科センニンソウ属
コマツナギ駒繋ぎ
マメ科コマツナギ属

ヘクソカズラ屁糞葛
アカネ科ヘクソカズラ属
アオツヅラフジ青葛藤
ツヅラフジ科アオツヅラフジ属
キハギ木萩
マメ科ハギ属

オトギリソウ弟切草
オトギリソウ科オトギリソウ属
ヤブミョウガ薮茗荷
ツユクサ科ヤブミョウガ属
ヤブラン藪蘭
ユリ科ヤブラン属







 猿橋から上がって来て、「虫がいない」と黄花コスモスをぼんやりと眺めていたら、偶然にもアゲハがやって来て、恰好の被写体になってくれました。







 猿橋付近の大岩でオオシオカラトンボを見つけましたが、なかなか近付けず、がっかり。帰り道に出会ったのが連結オオシオカラトンボでした。