2009.12.4&9&22(金&水&火)

設楽原の古戦場 後半

新城市長篠市場・新城市竹広
 設楽原は、南北に細長く広がる平地です。その北側に位置するのが雁峰山(688.4m)。左が弾正台地、織田・徳川連合
軍の陣。右が信玄台地、武田軍の陣。そして、大宮激戦地(画面奥 第二東名工事手前)から雁峰山を背に南側を望めば、立ち
塞がるのは風切山(356.4m)。設楽原を吹き抜ける風を切り分けるといわれます。織田信長は、ここを戦いの地に選んだのです。

右翼と左翼から柵の背後にまわりこんで敵陣を揺さぶり、中央の主力部隊が一点に集中攻撃をかけて突破口を開き、一挙
に徳川本陣を突く、というのが武田方の作戦でした。設楽原北側(右翼)で馬場隊が丸山を奪い取り、後に続く土屋隊や真田隊
が馬防柵に襲いかかるも、反撃されて先には進めません。南側(左翼)では山県隊(赤い甲冑で有名)や小幡隊が激戦の中で、
やはり背後にまわりこめずにいました。中央部では、内藤隊と原隊が繰り返し繰り返し猛攻をかけますが、どうしても突破口を開
けません。設楽原を挟んだ武田軍と織田軍の間は200〜300mほどでしょうか。武田軍が連吾川を越えた辺りで、織田軍の火縄
銃の射程距離に入ります。作られた柵は貧弱で、一気に突けば簡単に突破出来そうに見えました。連吾川中流域では水田が
開け、その他はただの草地でしたが、実は凹凸だらけで、しかも降り続いた長雨で湿地帯となっていて、人も馬も疾走しずらい
状態でした。ここで織田軍は守りに徹し、武田軍を誘い込んでは柵内に退避、火縄銃で迎え撃つ、その繰り返し。卯の刻(午前
6時)に鳶ヶ巣砦攻撃に始まった戦いは、設楽原で武田軍の主力武将が相次いで倒れ、ついに未の刻(午後2時)には総崩れ
となりました。現在竹広にある再現柵は、土屋昌次が馬防柵に襲いかかり壮絶な最後を遂げた場所に作られたということです。

常勝を誇りとしてきた武田軍が、ついに引き揚げのほら貝の音とともに北へと退却を始めました。殿戦を務めた馬場美濃
守や笠井肥後守に背後を託す形で、勝頼主従はかんぼう山に沿うようにして進み、小松ヶ瀬(只持、現在の布里発電所の少
し上流)で寒狭川を渡り、武節城(稲武)から信濃を経由して甲府に戻ったのです。一方、戦場になった竹広の民は、激戦が
続く間、かんぼう山続きの裏手の小久保小屋に避難していました。戦い終わって、戻った村人達が目にしたものは、地を埋め
尽くすほどのおびただしい屍でした。名だたる武将はその最後の地に埋葬されましたが、ほとんどは一ヶ所に集められ、大塚
・小塚の二つの塚をその上に築いて、懇ろに弔いました。この塚は信玄塚と呼ばれ、この辺りの地名となって今に至ります。

 かつての設楽原をキジが彷徨います。日本の国鳥に納得。煌びやかな鎧兜を身に着けた武者姿がだぶって見えました。

 モズです。かんぼう山を背に電線でじっとしていました。さらに連吾川沿いのヒノキのてっぺんでも、静かなる姿が見られました。

設楽原を飛ぶ古武士然とした アオサギ キジ 雄の後からさらに二羽の雌が現れました。

信玄塚の広場の隅の桜の枝に ヒヨドリ 弾正郭址で枝の上をゆっくり歩いていた ビンズイ

セグロセキレイ ハクセキレイ ジョウビタキ

ウラナミシジミ ヤマトシジミ ナナホシテントウ





ホソバアキノノゲシ細葉秋の野芥子
キク科アキノノゲシ属
ノゲシ野芥子
キク科ノゲシ属
トウカイタンポポ東海蒲公英
キク科タンポポ属

ダンドボロギク段戸襤褸菊
キク科タケダグサ属
ノボロギク野襤褸菊
キク科キオン属
トキワハゼ常磐爆
ゴマノハグサ科サギゴケ属

ホトケノザ仏の座
シソ科オドリコソウ属
ナズナ薺
アブラナ科ナズナ属
ハナイバナ葉内花
ムラサキ科ハナイバナ属

実センダン栴檀
センダン科センダン属
実ミヤマガマズミ深山莢迷
スイカズラ科ガマズミ属
実マユミ真弓
ニシキギ科ニシキギ属

実ジュズダマ数珠玉
イネ科ジュズダマ属
実マンリョウ万両
ヤブコウジ科ヤブコウジ属
綿毛アシ葦
イネ科ヨシ属